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【日本人とこころ】岩崎弥太郎と志(下)事業は国家社会への貢献(産経新聞)
- 2010.02.24 Wednesday
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- by vfrqb9wstr
終戦を迎え、日本へ乗り込んできたGHQ(連合国軍総司令部)は、占領政策の名のもとに、三菱や三井、住友といった大財閥に自発的解体を突きつけた。日本経済の壊滅を狙った、いわゆる、財閥解体である。
GHQが大号令を発する少し前、東京・湯島にある岩崎家本邸。明治29(1896)年に建築された優美な洋館では、三菱創始者である岩崎弥太郎の息子で三代目社長、久弥と四代目社長、小弥太が膝を突き合わせていた。いとこ同士で、共に欧米へ留学経験を持つ2人の目には、日本の敗色が濃厚だった。国が負けたら、国に協力してきた三菱はどうなるのか。いや、どうするのか。
岩崎家は、自発的解体を拒否する決断をする。「三菱は国家・社会に対し不信行為を行ったことはなく、国策に従い、国民としてなすべき当然の義務を果たしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」(「三菱のあゆみ」)と、小弥太は言い切った。
◇
明治6(1873)年、土佐藩の海運業を引き継いだ1人の武士、弥太郎を社主として誕生した「三菱商会」は、明治から昭和にかけての激動の時代を国とともに歩み、成長してきた。
「三菱は、三井や住友などの財閥とは大きく違いました」と指摘するのは、三菱史アナリストの成田誠一さん(68)。「三井や住友は三菱よりも何百年も歴史が古く、江戸時代にはすでに確立されていた。三井家や住友家は資本家。実際に経営するのは優秀な大番頭。資本と経営が分離した、先進的な企業でした」
一方、三菱は、一本気で妥協を許さない土佐の「いごっそう」、弥太郎が育てた上げた企業だ。「弥太郎は、幕末のどさくさで成り上がった武士です。弥太郎にとって理想の武士とは、戦場を駆け回る戦国武将。自分が先頭に立って、すべてを仕切りました」
会社を設立した当初、弥太郎は幹部たちが自分の顔色をうかがいながら話し合うのを見て、「今後、自分がすべて判断する」と宣言した。しかし、3隻しか持たなかった小さな汽船会社の三菱が、海運界を制するまでには、国内外のライバルとの熾烈(しれつ)な競争があった。
戦場に向かう武将さながらの弥太郎は、社員の士気を高めた。政府の保護を受け、国内最大だった日本国郵便蒸気船会社を「主宰統括する人物が凡庸」「船舶は概して腐朽に傾き、実用に適せざるもの多し」と切り捨て、「我が商会は社船少数なるも、いづれも堅牢(けんろう)快速」「実力を比較すれば最後の勝利は必ず我が手に」と鼓舞した(「岩崎彌太郎伝」)。
明治7(1874)年、風向きが変わる。政府は台湾出兵に踏み切ったものの、輸送の頼みにしていた英米の汽船会社から中立を理由に協力を拒否された。日本国郵便蒸気船会社に運航を委託しようとするも、その間に三菱に客を奪われるのを懸念し、二の足を踏んでいた。
最後にお鉢が回ってきたのが、三菱だった。台湾蕃地事務局長官、大隈重信は、弥太郎を呼んで協力を要請した。弥太郎の答えは、「国家有事の際、私利を顧みず公用を弁ずる」(「岩崎彌太郎伝」)。
「弥太郎は武士の出だったために、常に国のことを考えていた」と成田さんは話す。「所期(しょき)奉公」という言葉が、三菱には伝わる。事業の目的は国家社会への貢献という意味だ。
台湾出兵を機に、三菱は飛ぶ鳥を落とす勢いで拡大してゆく。海運業のみならず、鉱業、金融業など後の三菱の基礎となる事業が展開された。これに対し、三井など反三菱勢力が共同運輸を設立。三菱と激しいダンピング競争に突入していった。
その最中、弥太郎は病に倒れ、明治18(1885)年に胃がんでこの世を去る。享年50。新時代を志した武士の、壮絶な戦死でもあった。
◇
「三菱は他の財閥と違い、“岩崎財閥”とは言わなかった。個人で所有するのではなく、国のため人々のためという考え方がある」と岩崎家本邸だった邸宅を管理する、都立旧岩崎邸庭園サービスセンター長、松井修一さん(58)。9カ所ある都立庭園のうち3カ所が弥太郎ゆかり。息子の久弥は、岩崎家が有していた六義(りくぎ)園や清澄庭園を開放するために寄付。現在は大勢の人々が訪れる憩いの場となっている。ここにも、弥太郎の志は生きている。
戦いに明け暮れた弥太郎の唯一の趣味が、造園だった。土佐の生家には、大きな世界を志していた若き弥太郎が置いた庭の石が残されている。それは、日本列島をかたどったと伝えられている。(猪谷千香)
・ 「環境税と排出量取引の議論は同時に」小沢環境相が温暖化対策で強調(産経新聞)
・ わいせつ画像収集の元教師 「行為」で再逮捕へ(産経新聞)
・ 志賀原発2号機が営業運転再開=北陸電(時事通信)
・ 天井に飛ぶ乗客、渦巻く悲鳴…乱気流の機内(読売新聞)
・ シー・シェパードに日本女性 拡声器使い「3億円」を要求(J-CASTニュース)
GHQが大号令を発する少し前、東京・湯島にある岩崎家本邸。明治29(1896)年に建築された優美な洋館では、三菱創始者である岩崎弥太郎の息子で三代目社長、久弥と四代目社長、小弥太が膝を突き合わせていた。いとこ同士で、共に欧米へ留学経験を持つ2人の目には、日本の敗色が濃厚だった。国が負けたら、国に協力してきた三菱はどうなるのか。いや、どうするのか。
岩崎家は、自発的解体を拒否する決断をする。「三菱は国家・社会に対し不信行為を行ったことはなく、国策に従い、国民としてなすべき当然の義務を果たしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」(「三菱のあゆみ」)と、小弥太は言い切った。
◇
明治6(1873)年、土佐藩の海運業を引き継いだ1人の武士、弥太郎を社主として誕生した「三菱商会」は、明治から昭和にかけての激動の時代を国とともに歩み、成長してきた。
「三菱は、三井や住友などの財閥とは大きく違いました」と指摘するのは、三菱史アナリストの成田誠一さん(68)。「三井や住友は三菱よりも何百年も歴史が古く、江戸時代にはすでに確立されていた。三井家や住友家は資本家。実際に経営するのは優秀な大番頭。資本と経営が分離した、先進的な企業でした」
一方、三菱は、一本気で妥協を許さない土佐の「いごっそう」、弥太郎が育てた上げた企業だ。「弥太郎は、幕末のどさくさで成り上がった武士です。弥太郎にとって理想の武士とは、戦場を駆け回る戦国武将。自分が先頭に立って、すべてを仕切りました」
会社を設立した当初、弥太郎は幹部たちが自分の顔色をうかがいながら話し合うのを見て、「今後、自分がすべて判断する」と宣言した。しかし、3隻しか持たなかった小さな汽船会社の三菱が、海運界を制するまでには、国内外のライバルとの熾烈(しれつ)な競争があった。
戦場に向かう武将さながらの弥太郎は、社員の士気を高めた。政府の保護を受け、国内最大だった日本国郵便蒸気船会社を「主宰統括する人物が凡庸」「船舶は概して腐朽に傾き、実用に適せざるもの多し」と切り捨て、「我が商会は社船少数なるも、いづれも堅牢(けんろう)快速」「実力を比較すれば最後の勝利は必ず我が手に」と鼓舞した(「岩崎彌太郎伝」)。
明治7(1874)年、風向きが変わる。政府は台湾出兵に踏み切ったものの、輸送の頼みにしていた英米の汽船会社から中立を理由に協力を拒否された。日本国郵便蒸気船会社に運航を委託しようとするも、その間に三菱に客を奪われるのを懸念し、二の足を踏んでいた。
最後にお鉢が回ってきたのが、三菱だった。台湾蕃地事務局長官、大隈重信は、弥太郎を呼んで協力を要請した。弥太郎の答えは、「国家有事の際、私利を顧みず公用を弁ずる」(「岩崎彌太郎伝」)。
「弥太郎は武士の出だったために、常に国のことを考えていた」と成田さんは話す。「所期(しょき)奉公」という言葉が、三菱には伝わる。事業の目的は国家社会への貢献という意味だ。
台湾出兵を機に、三菱は飛ぶ鳥を落とす勢いで拡大してゆく。海運業のみならず、鉱業、金融業など後の三菱の基礎となる事業が展開された。これに対し、三井など反三菱勢力が共同運輸を設立。三菱と激しいダンピング競争に突入していった。
その最中、弥太郎は病に倒れ、明治18(1885)年に胃がんでこの世を去る。享年50。新時代を志した武士の、壮絶な戦死でもあった。
◇
「三菱は他の財閥と違い、“岩崎財閥”とは言わなかった。個人で所有するのではなく、国のため人々のためという考え方がある」と岩崎家本邸だった邸宅を管理する、都立旧岩崎邸庭園サービスセンター長、松井修一さん(58)。9カ所ある都立庭園のうち3カ所が弥太郎ゆかり。息子の久弥は、岩崎家が有していた六義(りくぎ)園や清澄庭園を開放するために寄付。現在は大勢の人々が訪れる憩いの場となっている。ここにも、弥太郎の志は生きている。
戦いに明け暮れた弥太郎の唯一の趣味が、造園だった。土佐の生家には、大きな世界を志していた若き弥太郎が置いた庭の石が残されている。それは、日本列島をかたどったと伝えられている。(猪谷千香)
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